推測の嫉妬 考えることを絞る 右へ倣え テレビドラマ
本来の日記部分
- 夢
オトナの遠足? だったような気がする。
王監督(野球の)が、柳沢選手(サッカーの)について語っており、カレを評価しつつも、「王ファミリーにはいれられない」といっていた。王ファミリーとはおそらく、野球の日本代表だと思われる。
松坂選手と同じレベルで考えているようだ。そのぐらいの才能があることを認めている。松坂選手も柳沢選手も一塁、三塁も守れるらしい。
柳沢選手は予選(これはたぶん甲子園の予選)のときは全然ダメでほとんどクビで(野球選手として? 4番として?)、9打数2安打ぐらいだった。
。。という夢でしたがちょっと詳細はおぼえていません。
ミチクサ(散歩、都市論etc)
- 二者択一ではない
20代の頃はイナカか、東京か、なんてことを考えていましたけども。。
そんなことはもう大きな問題ではないわけですね。いかに「現実」に直面するか、なんですよ。
その「ステージ」をどこにおくかという、物理的なハナシは、今の自分にとってはたいした意味はない。
今の自分が、身体(フィジカル)を鍛えたりスポーツをしたり、ということにとんと興味がなくて精神的な栄養について意識を集中させているのと、似ているような気がしますが。。うまく説明はできません。
身体(フィジカル)あるいは、「場所」(ステージ)はもはや「ハコ」にすぎなくて、大事なのはやはりコンテンツでしょう、と。。
人生観、のような、思想の話
- 考えることを絞る
たとえば、「オレはおカネがほしいんだから」と、まず直接的にカネもうけについて考えることも、人生のある時期においては必要でしょうね。
ヘンに善人ぶって「おカネのことから逃げ回っている」(by糸井さん)よりもよっぽどよいです。
「おカネがすべてじゃない」と自分に言い聞かせなければ生きていけないヒトほど、拝金主義に侵されていますからね。
斎藤一人さんは、「仕事のことばかり考えていればいい」と書いています。(一字一句同じではありませんが)
なぜ、仕事も大事、アソビも大事、と、思考を分散させてゆく必要があるのか、と。仕事のことだけ考えている人間がビジネス・シーンで勝利するのはアタリマエである、ということですね。
それと似たような感じで。。たとえば儲かりそうなビジネスに柔軟に資金を集中させてゆくように、「思考」も集中させてゆくのがよいのでしょう。ただし、それは人生におけるある一定時期だけでもかまわないのです。思考を一点に集中させ、時期も集中させ。。ということです。
で、自分が今考えているのは、とにかく「よりよく生きるためにはどうしたらよいか?」ということについて常に考えていよう、そこに意識を集中させよう、としています。
「おカネ」に関しては、言い訳させてもらえば、包括的にそこに含まれてきます。そして、おカネについては、もう少し経ったら考えます。(今はねかせている状態)
今、「よりよく生きる」に思考を集中させることにより、物欲と、精神的な充足感と、どちらもゲットできるかもしれない、とムシのいいことをホンキで考えています。
ほとんどのヒトたち、すなわち「庶民の総体」は、この高度資本主義社会で、マスコミの巧妙なプロパガンダにより、物欲に呑みこまれてしまっているわけで、そのギマンにだいぶ前から気づいている自分は、おそらくそうはならない。なぜならば、そういう物欲に呑みこまれている庶民を高みで見物してほくそえんでいる「層」がいるに違いないと思うと、心の底からハラが立ってくるからです。そんな「層」に馬鹿にされたくはありませんからね。
物欲に呑みこまれないと誓ったからこそ、自分には「よりよく生きる」権利が与えられたに違いない、と自負しているわけです。(それを「傲慢」ととる方もいますでしょうが、まあそれはおいといて)
物欲に呑みこまれていない時点で、この資本主義社会においては「けっこうガンバってる」といいますか。。ある程度「よりよい生き方」にはなってるはずなんですよね。
それでまァ、これからどうするか、なのですが。。「毛坊主」ですからね、出家もしたくないですし、カネとモノにまみれて生きるのもイヤですし。。 そのあたりの、この大都会でカネとモノとつきつ離れつのほほんと生きる手段、といいますか、俗世間にどっぷり漬かりながらも距離をおく奇跡的なバランスの手法とか、そういうところを、実践しながら見出してゆきたいのです。(【重要】マーク)
こうありたいまたは反面教師
- 推測の嫉妬
実生活においては、自分は、何もオピニオンを発していないわけです。社会に対して、淡々と仕事をし、子供を育て、家庭と、きわめて小さい家庭の周辺を守ろうとしています。(「守る」とは"keep"の意味も含む)
ですので、自分の意識はほとんど外側には向かっていません(現在は)。ただし、生きていれば当然、外部と接触しますし、世間との関係はできます。と、いうことは、「外部」と会話はするわけですから、そこに自分の「オピニオン」のようなものが、にじみ出てしまうことは、あるでしょう。
何かしらの圧力、この生活をkeepすることを阻害する何かが忍び寄ってきたときに、こちらのオピニオンを明示して、取り返しのつかないことになる前にゲキタイしておく、ということはありうるでしょう。
でもそれは、頻繁に発生することはないわけで。。
なぜ頻繁に発生しないかといえば、前述のように自分の意識が外に向かっていないからです。こういうときは、自分が外に向かって吼えない「のをいいことに」、私のことを「ヨワい」人間なのだとナメてかかって圧力をかけてくるヒトはいますけども。。
ほとんど何も発していない自分に積極的にコミットし、いろいろ探って、勝手に嫉妬羨望の念をいだいて、勝手に「外堀」から攻撃をしかけてくるヒトたち。。 こういう輩が、生きていれば発生します。
この輩の、私をじわっと攻撃する「根拠」は、ほぼ「推測」になるわけですが、なぜ「推測」だけで「攻撃」にまで至ってしまうのか。。
いろいろかぎ回ろうとしているヒトたちに対して、私は変わらず、何も発しないわけですから。。
(発しないのが気にくわないのでしょうかね?)
そもそも推測の域で嫉妬羨望の念を抱いて露骨に不快の念を示す、って、どうなんでしょうねェ。。ヒトとして。
芸能人は、有名税とはいえ、すべてこれをやられているのですね。カワイソウに。。
逆にいえば、人間が感じる嫉妬の念のほとんどは、推測から端を発しているのかもしれませんね。
私は、そうはならないようにしようと思います。
会社シリーズ
- 破天荒なアイディアマン
サラリーマン社会は、破天荒なアイディアマン(実務的なことは何もしない)の登場を、ホントウに渇望しているか?
最近の風潮として、閉塞したビジネス・シーンを打破する、組織に巻き取られない「大物」が必要、みたいな意見があるんですけどね。。
そういう風潮には私はきわめて否定的ですし、そういう(大きなカンチガイをしていそうな)人物というのはどうも、私がキラう「横文字職業」的人材にきわめて近いような気がするんですよね。。
実務能力がないのは、ビジネス・シーンにおいては「無能」であるということに気づかない。。
そういう「破天荒なアイディアマン」がぽっと営業に出て、いきなり1億の案件をとってこれるか? 企画にまわされて、爆発的に売れるグッズの企画をできるか? 事務方にはゼッタイになれない。技術がないから技術者にもなれない。
じゃあ、「破天荒なアイディアマン」は何をする? どの現場にいったところで、「口を出すだけ出して何もしないヤツ」というレッテルを貼られて「終了〜」でしょう。
ちょっと「サラリーマン離れ」しているからといっていきなり救世主になれるわけはないのです。それはドラマの見すぎですから。
「破天荒」とは、サラリーマン社会でもまれて、そうなってゆくものです。「サラリーマン離れ」とは、「スーパー・サラリーマン」に「成長」してゆくということです。
ところで、アイディアは、皆で出してゆくものですよ。そういう、上っ面だけのアイディアマンを待望される、ということは、庶民のアイディアを出すセンスをナメてないか? と思うのですが。。
サラリーマンのみなさんはナメられっぱなしでいいのですか?
再録
- 呼称、職業、社名の横文字への言い換え(20070503メルマガ)
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現場で事務的な処理をしている女性の呼称。。
ムカシは、「オンナノコ」でしたね、間違いなく。
今は「書記さん」とか「アドミン」とか。。 なんとなく、派遣社員のイメージがあります。
単なる「オンナノコ」から、何とかして立場的にカッコのつく呼称をつけよう、と企業側が躍起になっている様子がありありとうかがえます。
立場の言い換えについては、古くは課長を「マネージャー」とか。。
女性の呼称の件は、最近、外面だけは持ち上げていますが、内側の偏見が全くカイゼンされていないようです。
典型的な「コピーとり」をあえて「やっていただく」とかいってることがあるし。。
単に敬語というオブラートに包んでいればそれでよしという考えなのでしょう。
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自分は「呼称」に対してそれほど感情的ではありません。
現場には現場の、各自の「役割期待」があって、本来それらに上下はないはずですし、「何を」やってるかは関係なく、自分の役割をまっとうしない人に対して不快感を持つ。それだけのハナシです。
事務的作業に従事している人は、そういう作業をやってくださいといわれて面接で納得して入っているはずなのです。だから、言われたことはきちっとやってほしい。仕事内容に不満があるのだったら辞めればいい。辞めやすいシステムが出来上がっているのですから。
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- 職業の言い換え
物流を「ロジスティクス」、清掃を「サニタリ」、警備を「メンテナンス」とか。。
職業の言い換えについては、ムカシは相当な違和感を感じていたはずなのですが、今は、悪いことではないのかなあ。。とも考えています。
その職業に対してヘンな誤解を持ってしまうのも困りますが。。 なんか横文字の職業だからカッコいいことやらせてくれるのかな、と思って入ってみたら完全な流れ作業だった、とか。。
でも、今そんなことでダマされる人はいないのかな、とも思います。
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職業どころか、日本の会社の社名はほとんど横文字になってしまいました。それでホントにイメージは上がったのだろうか。。
福武書店がベネッセになったときは相当驚きましたが、今はふつーに受け入れられています。
カタカナにすると、なにしてるかわかんない、というのが奏功して多角経営できるのでしょうか?
「トウソウシン」=>クォーク とか。。
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外注に対する「パートナー」とか「パートナー企業」あるいは「協力会社」という呼び名は、聞こえはよいですが用は下請けです。
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- 縁の下の力持ち
縁の下の力持ち的仕事(たとえばメンテナンス系、清掃系など)は特にこの世の中では大事な仕事のはずなのに潜在的には馬鹿にされ、社会的地位は低く、賃金は安い。。
こういう仕事に就こうとする人はまさに「正直ものが馬鹿をみる」状態です。
これを打破してゆくには発想を替えて、もともとおカネを持っている人たちが余裕をもってそういう仕事をやったほうがいいのでしょう。(「ノーブレス・オブリージュ」でしたか)
そういう仕事で「生活かかってる」と、ただでさえそういった仕事に誇りを持てないご時世で、悲壮感漂いすぎます。
あるいは年金で生活ができているシルバー世代が旗振りをすればいい。いっそのこと大学生のバイトを使ってもよいでしょう。
実年世代がシルバー世代、バイトを使う通常の構図ではなく、シルバー世代が管理してバイトを使えばいいんですね。
その間の世代がすぽっと抜けたっていいじゃないですか。雇用が少ない世代に任せてしまえばいいではないですか。世代間交流にもなりますし。