元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

抜粋・紹介

禅と日本文化 (岩波新書)

禅と日本文化 (岩波新書)

「悟りの原則は事物の真理に到達するために概念に頼らぬことである。概念は真理を定義するには役だつが、われわれが身をもってそれを知ることには役にたたぬ。概念的知識はある点ではわれわれを利口にするが、これは皮相なことにすぎぬ。生きた真理そのものではない。それゆえ、それには創造性がない。単に死物の蓄積にすぎない。」
「生は神秘に満ちている。神秘感のあるところ、どこでも禅がある。(略)悟りはいかなる論理的範疇の下にも包摂されることを拒むから、その実現には一種特別の方法がなければならぬ。概念的知識にはその技法すなわち進歩的方法があって、それによって人は一歩一歩進めてゆく。が、これによっては事物の神秘に到達することは許されぬ。しかも、この到達なくしては、いかなる事の師匠や芸術家になることも不可能である。どの芸術にもその神秘さ、精神的リズム、日本人のいわゆる「妙」が存する。これこそ、すでにのべた通り、禅があらゆる部門の芸術と密接に関連する点である。真の芸術家は禅匠と同様、事物の妙を会得する法を知った人である。妙はときとして日本文学において「幽玄」と呼ばれる(略)」


「(略)臨済がかくして深く洞徹しえた「無意識」の境では、結局「仏法などそう大したものではなかった。」なぜかというに、「無意識」は蓄積された知識の宝庫ではなくて、涸れることを知らぬ生の源泉であるからだ。ここには知識が貯蔵されてあるのではなくて、あたかも巨木が極小一粒の種子から生長するように、ここから生長するのである。
以上引いた場合で判るように、自覚に関する禅の技術の心理的解釈は「人間の極限は神の機会である」−東洋流にいえば、窮して通ずるという真理に基礎を置くのである。偉大な行為はみな、人間が意識的な自己中心的な努力を棄て去って、「無意識」の働きにまかせるときに成就せられる。(略)人が「狂気」になったとき、偉大な事が成就されるとしばしば言われる…という意味は、人間普通の意識層では思想や観念が合理的に組織され、道徳的に統制配置されている。それであるから、ここではわれらはいずれも通常の、常套的の、平々凡々の俗人である。すなわちもとより無害の市民で、合法的に行為する集団の一員であるから、その点では賞讃に値するのである。しかし、かかる魂には創造の性はなく、踏みなれた径をはずそうという衝動もない。(略)偉大な魂の場合はまったくこれと異なっている。期待されてはいない。気狂いである。(略)」
(抜粋・紹介おわり)