都心について(再録)
抜粋・紹介
- 斎藤一人さんのメルマガより 「合わない人とは会わない」
嫌な人間と付き合う必要はありません。嫌な人間と付き合って苦しい思いをしながら、しあわせにはなれません。合わない人とは会わないで、その間、自分がしあわせになることをやっていればいいんです。
(略)
斎藤一人さんは「我慢できないぐらい嫌な人なら、会わなければ良い」とおっしゃっています。自分と合わない人と会う必要はなく、それよりも自分がハッピーになれるような行動を取れば良いのだと言います。
(略)
(抜粋・紹介おわり)
斎藤一人さん理論を援用すれば、嫌な人間がいる会社に籍を置いていれば幸せにはなれないということです。
ただし、会社組織には必ず嫌な人間が存在する。。
だったらどうするか、ここで短絡的に、脱サラすべし、という結論にもいけないのです。
この抜粋だけを取り込むのではなく、斎藤一人さんの発言全体を俯瞰してみればおぼろげな答えがみえます。
嫌な人間というのは自分にとって、という意味合いが強くて、ヒトとして欠陥のある人間は確かにどの組織にもいるので論外ですが、とあるヒトを「嫌な人間」と思い込んでしまう前にまず自分が努力してみる余地はある、ということでしょうね。
- 内田博史さんの日記
この日記でも何度か紹介している、
内田博史さんの日記が今、盛り上がっています。(本人が)
なぜかはわかりませんが。。 キャンペーンなのかもしれませんね。
私の大好きな「正論のオンパレード」です。すばらしいですね。
たぶん、自分とそれほど年齢の変わらない方だと思いますが(もちろん会ったこともないですが)、この方の意見は参考になります。
高校とかの「課外授業」にこの方を呼んだらいいのではないでしょうかね。中学ぐらいまではまだ、わからないでしょうから。。
この方の正論にマユをヒソめる親はいるでしょうけど、知ったことではないでしょう。親の反論に逆ギレしてホンキで論破するぐらいの先生のほうがいいと思いますけど。
再録・継続
- 最高の「活動」(20070122)
自分の「田舎」をチェンジして東京に持ってきたことこそ、自分が能動的に起こすことができる最高の「変化」ではないか? と、考えるわけです。
これで自分の子孫はずっと(おそらく)東京に暮らしてゆくわけですから、そう考えると自分の起こしたアクションはすごい影響を次世代に与えているのだと、勝手に思っています。
「子供には、貧乏だけはさせたくない」と考えるのと同じレベルで、「子供には、田舎暮らしだけはさせたくない」と、強く思います。
が、自分の子々孫々はそう思わないのかもしれませんが、それはそれでかまいません。
「この高度資本主義社会で、子供が自然の中で育つのは本当に幸せなのか」
http://d.hatena.ne.jp/StevenGerrard/20061001
生まれ育つ場所は子供は選べません。私は、田舎、それも半端に栄えている地方都市のさらに周縁で育ったことで、スタートラインが半歩以上下がっていたような気がしてならないのです。
田舎の子は極めて高い確率で都会に憧れ、出ていこうとします。その労力、パワーが無駄なのです。都心で育てば少なくともその労力は、他のことに振り分けることができます。(【重要】マーク)いわゆる「個性」をもっと伸ばすこともできるかもしれない。
もう少しスマートになれると思うのです。ただし、都心の周縁は、地方都市と何ら変わりません。変わるのは都心(情報の中心)へのアクセス時間が少し短いだけです。都心でなければならないのです。
この「都心でなければならない」と自分が強く考えるようになった根拠が。。 それがよくわからないのですが。少なくとも長い時間をかけて、そう思うようになり、今、それが強固なものになっていることは間違いありません。
(再録おわり)
何にこだわりを持っているか? と問われれば、「住むところ?」(疑問符つき)と答えるのだと思います。
自分が都心に移ったころは、「山手線の内側」に越すということは一種の「こだわり」と思われたものです。
今は違うかもしれませんが。。
「家賃が高いだけ」「空気がキタナい」「家が狭い」などなど、いろいろなことをいろいろなヒトから言われましたが。。
その頃から、自分が熟考した結果「こうだ」と思ったことは、他人にいろいろ言われるものであればあるほど正しいのではないか、という確信はありました。
それは、「やめときなさい」ではなくて、予想以上に食いついてくる、というか。。
自分の行動がそのヒトの心の「何か」に触れなければ、話題には食いついてきません。社交辞令的に「あー、そうなんだ、よかったね」ぐらいで終わります。
何かしら論戦をふっかけてこられたりする場合、そのトリガとなる行動は、その人がやりたくともやれずにいて、心の中に抑圧しているモノだったりするのです。