元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

頑張ることによりバランスが与えられる 昔グレていたということ

【トピック】
ときどき歯痛です。

【活動・活動に関して(散歩、都市論etc)】
虎ノ門二丁目、虎ノ門病院界隈をぶらっと。
【「そう思ってたんだよ」(うまく説明してくれた)】
ある有名な方の日記から。。
「オノレが勝手に挫折したマイナスからの出発を売りにする人間を私は信用しないことにしている。」

そのとおりです。昔は(自らすすんで)グレていましたが今は頑張っています、的なアピールが好きではないのです。自ら勝手にマイナスに振れただけで、今はふつうになっているだけです。その人の独自性はもはや失われているといえるのではないでしょうか?
「グレていた」というのは決して過去に輝いていたことではなく、単なる汚点にすぎないのです。グレていた時代には100%人を傷つけている(精神的含む)はずで(グレると人を傷つけるはセットです)、それを誇っているように思えてならないので不快です。

【雑感】
[良いこともあれば悪いこともあるか]
先日茗荷谷付近を深夜徘徊しているときに、自分にとって重要なことを反芻していたので、それを書き留めておこうと思います。
3つほどあったのですが。。

20代の終わりぐらいから、「一生懸命」とか「精一杯」という言葉が好きになってきました。そういう言葉は若者の頃は敬遠するものです。

人生をより良いものにしよう、というのは誰もが考えるわけでして、それを実践するためには「一生懸命」「精一杯」頑張るほかない、ということです。人生のすべての局面でそうすべきだとは思いませんが、頑張る時期は一定期間絶対に必要である、と思います。

そして、「一生懸命」「精一杯」頑張る人間は、報われてほしい、と思います。自分も、自分がもし客観的にみて「一生懸命」「精一杯」頑張っているように見えるのであれば、報われたいです。(今はそうなっているかどうか。。)
頑張っている人に対しては、たとえば私から金銭的な報酬を与えることはできませんが。。ねぎらいの言葉ぐらいはかけてあげたいと思います。その言葉により、その人はわずかであっても報われるのです。

余談ですが、人の足を引っ張ろうと頑張る人は「頑張っている」とはいえません。


ところで、最近思うのは、「一生懸命」「精一杯」頑張る人間は、「報われる」というよりは、「バランスを与えられる」のだと思います。つまり、「人生良いこともあれば悪いこともある」という意味でのバランスです。
悪いことの後に良い出来事が起こる、というのは、「一生懸命」「精一杯」頑張る人にだけ与えられる特権ではないかということです。そうあってほしいと思います。ぐうたらのんべんだらりと生きている人には、悪いことが起きてほしいとは思いませんが、素晴らしい良い出来事が起きてほしいとも思いません。

頑張っていない人は、「悪いこと」のあとには「ふつうのこと」がある、ということです。悪い<->ふつう の間でしか人生が振れないわけです。頑張っている人は振れ幅が大きくあってほしいと思います。

小さい子供というのは常に、無意識で一生懸命生きているものです。ですので最初から「バランス」を与えられているのだと思います。
ところが、最近の子供たちは、早いうちから一生懸命さをなくしてしまう場合が多く、頑張らずに「良いこと」ばかりを求めるようになり、「何で自分ばかりが幸せでないのか」という感じで心がゆがんできます。
子供は、自分が一生懸命さをなくしてしまっていることを意識的に気付くことはできません。

幸せではないかもしれないが、一生懸命でなくとも生き延びさせてくれる社会に暮らしている、という意味では少なくとも悪い人生ではありません。

バランスがとれているがゆえに、極端に悪いほうに振れたときに、不慮の事故で亡くなってしまったり、「バランス」では取り返しのつかないぐらいの痛手を負ったりします。
それを見たり聞いたりするのはとても痛ましいことです。