寝る前にやること
寝る前に良きイメージをもって睡眠に入るべしというのはよくいわれることで、かなり正しいと思う。
良きイメージってのは人それぞれだがまァ、大金持ちになっている自分でもよかろう。なんでもいい。
ところで、だ。
寝る直前までテレビだのPCだのスマホだのを見ているとね、完全に、睡眠に持ち込むイメージが受動的になる。ひきずられてしまうんだ。
たとえばテレビであれば、寝る直前にみたテレビのイメージのまま夢の世界へ。
それじゃあダメなんだって。
寝る前2時間ぐらいは、飲み食いしないほうがが胃腸にやさしいといわれるけど(消化に専念させる、と)
目と心も全く同じ。いかに静かな環境に身をおけるか。
つまり、「良質な睡眠を得るために全力を尽くす。そのために生きる」でいいんだよ。「快便のために生きる」のと同じように。
惜しみなくモノを捨てる時代に。
惜しみなくモノを捨てる時代に。。なったでしょ?
大量生産、大量消費の時代に。
この国はもはや、いつからか、大量消費しなきゃまわらない世の中になったのよ。
大量に「消費」するってことは捨てることとほぼイコール。
これだけでも、劇的な変化だよ。でも「もったいないから捨てられない」年寄りは時代の変化についていってない。
この件に関してオレの整理は(例外はあるが)
・「パーソナルな」モノは「なかなか」捨てない(いつか捨てる)
→パーソナルなモノとは要は「思い入れがある」もの
・オレのために、といただいたものはなかなか捨てない
・高いモノはなかなか捨てない。安いモノは捨てる。
服でいえば、安い肌着とか「しのぐ」ために買ったものと欲しくてほしくてやっと手に入れたものがあると思う。
茶碗食器類でもお気に入りのものとそうでないものがあるだろう。
あ、そうそう
年月を経て残念ながらお気に入りから外れてしまったもの、だよね。捨てるべきは。自分の中で「格下げ」になったもの。
それを躊躇なく捨てるようにしないと人生、次のステージに上がれないんだよな。
カンペキでなくともよい
100%ではないようにしとく、っていうのもひとつの健康法なわけです。
何かを、カンペキにできる、あるいはできている、というのはかなりのプレッシャーだから、どんどんオリてゆくべきだと思います。他人というのは勝手なもので、誰かがとある分野で「カンペキ」とみえたらそれを維持することをのぞみます。できる人間に対するプレッシャーのほうが(当然)大きい。
とあることを、95%ぐらいできていれば、もう十二分でしょう? 対外的にも。
そういうの(自分は「失敗できない!」みたいな)で人生縛られてはたまりません。
親は子供に意識づけする。
親は子供の「レール」を夢想するのはかまわんし、このレールに乗れ、と子供にいうのも別にかまわんし、抱っこして(力づくで?)そのレールにあげてやってもいい。
だって、親だもん。
でもね、そのレールに強制的にのっけたところで走っていくかどうかなんて、わかんないじゃん。
カーブ曲がって親がみえなくなったところでするレールから降りちゃうんだろうしね。(で、歳とってまたレールに戻ったりしてw)
だから。
親のスタンスとしては、もしやれるんなら。。
子供が敷くレール、あるいは、子供が主体的意思で乗っかろうとするレールを「補強」するというスタンスのほうが、いいぞ。
あくまで自分らしく(「自分らしく」ってチープな言い草だなあ)
特にビジネスにおいて、一から人間関係を構築するのはとても面倒くさい。
だからどうするか? 常に「自分らしくする」。
他人にあわせなければよいのだ。ぽこっぽこっとどんどん形成される人間関係それぞれにあわせていこうとするから面倒なの。どの集団でも自分でいればいい。
言うが易し、じゃなくてさ、オイラでもできんだから。
ただし、「礼節」はゼッタイ必要。というか礼節だけでいい。
人間関係の中で角ばって、いたるところで軋轢をうむのが「自分でいる」ではない。
むしろつねにのらりくらりとすることのほうが近いかもしれない。のらりくらりするのは人に合わせるのとは違う。
そもそも客先会議には必ずたどりつく前提。それは実はすごいことなのかもしれない。
なんかいも似たようなこと書いてるけど、何度でも書く。
これを読んで救われるヒトがふたりぐらいいたら俺は幸せだ。
客先で会議があるとするじゃない。で、重要なことを客に対して発表する必要がある、と。
だから資料つくったり上司にレビューしたり想定問答をシミュレーションしたり。。
客に何いわれるだろう?キレられたらイヤだなあ、この企画は通るかなあ、とか、いろんなことを考える。
そう、かなりいろんなことを、ね。
ところが! たとえば電車でふた駅ぐらいの客先に、「当日無事たどりつけるだろうか。。」とは、誰も考えない!
誰も!
何十回もそこにいってるから!
そんなことあたりまえじゃん、なんて、思いますか? これはアタリマエのことではないのだ。
たとえば新卒のぺーぺーがはじめて客先会議に出席するときは、「当日無事たどりつけるだろうか。。」っていうパラメータは入ってくるんだよ。乗換案内で調べたりするじゃん。
逆にぺーぺーは一回目からプレゼンとかしないだろうから、まずたどりつけるだろうかとか、みだしなみとか、ちゃんと名刺交換できるかとか、そういうあたりだよね、プライオリティが高いのは。
まぁ方向音痴なヒトは、何回いってもたどりつけないかもしれないという不安が残るかもしれんがw
で話戻すと、何回も客先にいってる人間は、そこにたどりつけるだろうか、なんていう不安はみじんもないし、そして九分九厘客先にたどりつくんだよ。
大雨であっても! その重要性によってはあなたは、38.5度の熱があっても、たどりつくであろう。
で、なぜたどりつけるか? なんだけどそれは「練習」してるからだよね(笑 いや、当の本人は練習してる気なぞさらさらないんだろうけど。
練習して、かつその結果、身体がもう覚えてるわけ。どの改札を出てどっちに向かってどのビルの何回で受付して。。とか。
だから、そのレベルにまでしようよ! 自分が抱えてるたくさんのことを。
と、いうことを、いいたいの。
新入りの頃まったくできなかったことも、人間、何ヶ月、何年か経つと完全にルーティン化できる。
これって、すごいことなんだよ?
最初にかいた「資料つくったり上司にレビューしたり想定問答をシミュレーションしたり。。」も、たゆまない努力によりルーティンにしてしまえばいいの。
つまり言い方を変えると。。いっかいいっかいのプレゼンを自分の中で「イベント」にしてたら身体もたんでしょって。そのハラハラドキドキが仕事の醍醐味とか、思ってる? としたらそれは間違い。
当日、客先に間違いなく到着できる、と思っているのと同じように、そのプレゼンは間違いなく相手を納得させられる、っていうとこまで身体に落としこむんだよ。
想定問答をやっておくのすらルーティンの努力でカバーできる。客が想定外の質問してきてしどろもどろになったりいきなりキレられたりすることにビビってんだったらそこまでも想定にいれとくんだよ。
それは、ビジネスマンならば誰にでもできること!
でね、ビジネスにひきつけて書いてきたんだけれども、もっと壮大な、さ、たとえば「それなりの」小金持ちになりたいとか、豪邸に住みたいだの幸せになりたいだの、そういうのも、すべて今書いたことの延長線上に、あるんだよ。
願うヒトはセットで行動「しなきゃいけない」の。その行動は、吟味しなきゃならないの。
たとえば客に何いわれるかわからんっていうのが不安要素なのだとしたら、ベテランの先輩とかつかまえて客になってもらって想定問答するとかね。
野球だったら守備の不安打ち消すためにあらゆるパターンのゴロのノックを、コーチにしてもらえば、不安は消える。やりきった!という自信も必要だし、アタリマエのことだけどノックを繰り返してうまくなっていく必要もある。
その両輪なんだよ。
だから、いろんなヒトがいろんなところで書いてるように、小金持ちになりたいんだったら、なった自分を強く想定してみる、ってのは、正しいんだよね。
でもね、そこで、強烈な「不安」に襲われなきゃならんのよ。そのあたりを書いてないことが多いよな。
「あれ、俺、まったくなってないじゃん!どーすんのこの状況!?」っていう不安ね。自分がまったく努力不足であることを知り、自分の理想と今の現実とのあまりの差に愕然とし、そして(そこまではだれでもやる)即行動!なんだよ。
そして行動の質っていうのは走りながら上げていく。逆にいえば走りながらじゃないと質があがらない。
「習慣の権化」
週に5~6日は、まるでコピーのような同じ生活をしてみる。
(ただし、それぞれの生活習慣は厳選する必要あり)
そうするとどうなるか? 平日は矢のように過ぎ、1週間があっという間にすぎる。それは、なんとなくわかるだろう。
たとえば平日5+休日2 のはずなのに、平日:休日が1:1の比率のようにおもえてくるふしぎ。
さらに(大事なのは)、1週間があっという間にすぎるからといって人生ムダに過ごしているわけではない。
良質な習慣をつづけていると、同じくあっという間に実力がつくのだ。それを、多くの人たちはわかっていない。ムダにすごしても「良質なルーティン」を消化していっても、同じようにあっという間に時は過ぎてゆくから。同じあっという間でも中身が雲泥の差なのだ。
雲泥の差なんていう生半可なもんじゃない。致命傷なんだ。