元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

生活習慣を調えて、そこから

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生活習慣を調えて、そこから始めて人生の再スタートなわけです。

生活習慣を調えるのが人生の目的ではないのです。それは、長い長い助走にすぎない。

やっと、「互角のスタートライン」に立てるのです。で、何をするのか? は、各人の個性によるので。。

スタートラインは同じ地平ですが、別に、同じ道を進まなくともよいのです。

それを、腹落ちできないヒトが多いようです。。

「同じ地平」に立てるということは、そこで素晴らしい景色をみれるということ。すべてを見渡せるということなのです。

そこから、どこに向かっても自由です。

そこに立つことができればしめたものです。多くのヒトはそこまですらいけないのですから。

スキルが高い人間が人格者ではなかった。

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今だから負け惜しみですが、スキルがないという自覚があったにせよ、本気でスキルをつけるつもりがあればやったと思います。
実際勉強はキライではなかったですし。資格はふつーに持ってるんですけどね。

なんでそれをやらなかったかというと、その時期に私の周りで「スキル」一本でブイブイいわせていた方々で、人間的に尊敬できる人が皆無だったからです。
そして、繰り返しますが、世の中すべてがそうだったと言いたいわけではなくて、その時期の私の周りが、そうだったということです。

超絶スキルを持っていてかつ人間的に尊敬できる方が近くにいたら、私の人生も変わったでしょうし、そういう方を私が見つけられなかったことはもしかしたら「不幸」だったのかもしれません。

さて、それで私は「主体性」に活路を見出したわけです。

主体性とは……私なりに解釈すると「しゃしゃり出る」ということでしょうか。

基本中の基本は、誰もボールを拾わなそうなタスクを逐次「僕がやります」と拾ってゆく。私にとって大変幸運だったのは、そういう誰も拾わないタスクってそんなに「スキル」はいらないんですよね(笑)。ただ「めんどくせー」だけ、とか。
ただし、そこで必ずしもスキルが停滞してるわけでもなく、「めんどくせー」タスクを拾いまくっていくと、らせん的にスキルは上がっていくものです。この感覚を経験していない人は不幸です。

ただし!らせん的にはスキルは上がっていきますが(おそらく、一生涯かかって)、その手法では「それなり」にしかなりません。本当に通用する(高給をとれる)スキルを身につけるには、机上の勉強+修羅場経験 が必須になってきます。


もうひとつのアプローチは、失敗をおそれず「出ていく」というか…… たとえば定例会では積極的に発言していって「この分野ではアイツに聞いとこう」という分野をつくる。
そして、たとえばステークホルダーが病欠、とかいうときにファシリテーターを「乗っ取って」いくわけです。
これも、大変幸運なことに、スキルはあんまりいらないんですね。専門分野の知識ではなくて、つまり、調整能力に類似したものです。

言い方を変えると、前述したスキル一本の方で主体性を発揮していた人はゼロでした。そういう人たちはすべて受動的な姿勢でしたし、自分の守備範囲以外のボールに飛びつくことも皆無でしたし、マネージメントや顧客に対して文句ばっかりいってました。(しつこいですが、私の周りにいた方限定です)


ここだけの話ですが(笑)、私なんぞ三次請け四次請けがざらでしたので、商流的に打合せを「乗っ取る」なんて通常はありえないことです。でも、プロジェクトを推進していく上では、やれる人がやれることを拾っていくのが大事であって、誰がプライムベンダだから、誰がパートナーだから、とか関係ないんです。というかそんなのガン無視していいんですよ。もっとはっきりいえば実力順で仕事していけばいいんです。
そんなことを意識してなくともプロジェクトがくすぶり始めたら商流関係なく、「デキる」人に仕事が集中していくようになります。やる気のない、仕事できないプロマネとか誰も話を通さなくなります。


もちろん、失敗はしますし、商流を無視してしゃしゃり出ていくと陰でグチグチ言う人間は必ずいます(だからIT業界はキライ)。でも、わかってくれる人は必ずいます(100%)。
なぜならそれは、積極的な失敗だからです。

特に、上位レイヤにいる人にはわかってもらえます。かばってもらえます。若いうちに「しゃしゃり出」てくる小僧を彼らは待ち望んでいるのです。最初は生意気でもいいのです。
そういう人材はIT業界にはホント、少ないので、貴重すぎるほど貴重なんです。

私も手前味噌ながらけっこういろんな方にかわいがってもらいました。生意気な割には、前述したとおり格好は地味で(同化しようとしている)めんどくさそうでなく、それと、そもそも勤怠も悪くなかったですし、ふつーに敬語を使えていたからだと思います。

断捨離とかいう言葉が流行るずーっと前から。

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オレってけっこう、自分の服とか思い出の品(という名の、他人からみたらただのガラクタ)とか、ごそっと捨てることができるほうだと思うよ。

完ぺきではないけど。
断捨離とかいう言葉が流行るずーっと前からね。
年末に、がーっとね。

なんでかっていうとさ、それをしないと「次のステージ」にいけないんじゃないかっていう恐怖に近い念があるからなんだよね。

つまりね、次のモノをいれるために空けなきゃいけないのよ。5割比喩だけど。

まあたとえば靴とか?ボロにはなってないんだけどくたっとしてたりするじゃん。でけっこう安くなくて、デザインも気にいってるもんだから、そのくたっと加減が(悪い意味で)気になっているんだけど、履き続ける、と。
こういうときなんだよね。こういうときにばしっと捨てれるかどうか。

たぶんふつうの家だったらさ物理的なスペースの問題があるじゃない。特に日本のマンションの靴箱なんて有限だからさあ。
だから、基本的には「捨てて、空けたところに入れる」しかないでしょう。
だから、捨てるの。

。。答えになってないな。物理的なスペースの話だけじゃなくて精神的なスペースの問題も、あるんだよ?
つまりね、靴なんてのはね、買った時点でのそのヒトのセンスの集大成みたいなもんなのね。それを仮にね、大切に10年使っちゃったとしたら、それはいくらなんでも古いはずなのよ。デザインが。

まるでそのヒトが10年成長がないみたいな感じなのよ。そういうのってさ、何かしらの違和感を感じたらさくっと脱ぎ捨てて、次のセンスの集大成を「入れ」るべきなんだよね。

それに躊躇してしまうんだったら、安いの買って買って、捨てるサイクル早めたほうがいいよ。まだいいよ。

仕方ないよね〜そうなっちゃうんだから。

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目標とか、なりたいこと、とか、そんな感じでガツガツと書きだしたり 思い描いたり計画したりするんじゃなくて、「そうなっちゃう」ことを書く。

と、いうことです。

「なりたい」とか、目標とかいってる時点でなれないような気がしま す。

「そうなっちゃう」ことを書いていけば、それは、いってみれば現実的です。荒唐無稽じゃない。

例えば僕はアラフォーですが「プロ野球選手になる」とは絶対に書かないわけです。

重要なのは。。それは自分のマターではないのだ、ということを認識すること。それは誰かが代わりにやってくれることだから。すごく強く、 そう思う人がやってくれる。それは僕ではない。

素直でいい子に育てたいのに

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オレは自分の子供らを素直でいい子に育てたいのに、学校という社会がそれをさせないという根本的な矛盾。。

学校で「もまれる」ことを是とする根強い空気。。ブラック部活も礼賛される。部活内であればハラスメントも黙認(具体的な体罰はなくともハラスメントの温床)

オレは、子供が社会に出て何がいちばん武器になるかっていうと、素直で良い人間であることだとかたく信じてるわけ。

なぜならば、素直で良い人間って世の中に少ないのよw なぜ少ないかってーと学校教育でツブしちゃうからなんだよね。

んでさ、実はツブすのって教師じゃなくてクラスメイトなんだよ。ひいていくと、学校の「悪玉」の親なんだよ諸悪の根源は!

その事実に早く、目を向けないと。

「引き寄せの法則」論(2)

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和民の社長のように、未来日記を書いて、実現したいことを具体的に日付入りで記入する。そして常に目標を意識する。

それは、素晴らしいことですし、ぜひやるべきだと思います。

なぜなら、それをすることにより、目標を実現するための「Todo」とスケジュールが明確になるからです。

でも、実は。。

本当の目的は、その「目標」の実現ではなくて「プロセス」そのものなのです。

目標および、「Todo」とスケジュールが明確になれば、あたりまえですがスケジュールにのっとってTodoを「やる」わけですから、「プロセス」が発生するわけですね。

「プロセス」を発生させ、さらに、そのプロセスを充実させる。充実すれば、楽しくなる。それが、目的なのです。

非常に重要なことは。。

とある目標に対してのプロセスが充実し、楽しくなってくると、その目標がぼやけてくるわけです。

目標がぼやけてきていることに、最初は気づきません。また、そのプロセスそのものはすでに加速度がついているわけですから、目標がぼやけていてもプロセスは進んでいきます。

さらにプロセスが進むと、これもあたりまえのことなのですが、自分が成長してゆきますね。経験値が上がってきますから。

自分が成長するとどうなるか!

(なんと)最初に設定した目標では物足りなくなっている自分がいるのです。

目標が「ぼやける」とはそういうことです。

やがて、いつの間に、新しい目標がじわじわと自分の中でセットされていきます。それにあわせ、最初の目標はじわじわと駆逐されてゆくのです。

 

ここで、「引き寄せの法則」の話に戻りますが、ぐいっと引き寄せるものが、自分が具体的にイメージしたものと違う。でも、なんか嬉しい、楽しい、というのはこういうことなのです。

自分が、引き寄せたいものが具体的にあり、それを望むがために「引き寄せの法則」を適用してはみたものの、実際じわじわと自分が手に入れたものはどうも自分がイメージしたものとは違う、と。。これは多くの人が経験するのだと思います。

でも、「自分がイメージしたものとは違う」という事実に対しては落胆する必要は皆無なのです。でも、何かを引き寄せたという実感はあるわけです。何か、じんわりと楽しい、嬉しいことを。

それが、本当に引き寄せるべきものであって、ムカシ具体的にイメージしていたものは「今の自分」が引き寄せるべきものではないのです。あくまでも「ムカシ」の自分が引き寄せればよかったものなのです。

多くの人たちは、自分の目標が、ムカシより「より素晴らしい」ものにセットされたということに、気付かない。いつまでもムカシをひきずっては、いけません。

自身は「プロセス」により成長しておりすでに2ndステップに入っているのです。ステージが上がっている自分がセットすべき目標が変わって(グレードが上がって)も何ら不思議はありません。それどころか目標はダイナミックに、常に上げてゆくべきなのです。

ムカシの自分は、ムカシの自分が設定した目標がカンペキであると思っていたのでしょうが、いろいろなプロセスを経てパワーアップした自分にとっては、もはや大したものではない。

自分が、目標に対して間違っていない正当な努力をしている、という前提で、もし、自分の目標がぼやけてきたな、と感じたら、その感情を頑なに打ち消すのではなくて、その目標が実はいまの自分の「サイズ」にそぐわなくなってきたのでは? ということを素直に考えてみるべきだと思うのです。

人を引っ張り上げるには力が要る(比喩)

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人をどこか下からぐいっと引っ張り上げたことがありますか?

 

引っ張り上げるには相当な力が必要で、具体的には引っ張り上げられる人より

も1.5倍以上は力持ちでなければ、自分が引きずりおろされる。

相手に悪意がなくとも、だ。

 

相手は死ぬ気でしがみついているのだ。それに対してこっちは余裕をかまして

(表面上は)引っ張り上げなければならない。

 

相手は両手で、こっちの片手にしがみついてくることがある。

こっちのもう一方の片手は何かにしがみついて必死に耐える。

 

ごく一般的な大人では、やっとこさ子どもを助けられるぐらいだ。ふつうの大

人は大人を助けることはできない。はっきりいって。

一人で助けようとせず、助けを呼ぶのが肝要だ。また、仮に、そこから逃げ出

したからといってそれは必ずしも弱虫とは限らない。自分ではゼッタイに助け

られないとわかったときに逃げる、というのはふつうの庶民の行動だ。他人は

それを責めることなどゼッタイにできない。てめえが同じ立場だったらそうす

るに違いない。

 

 

このたとえは人生のいろいろな局面のたとえだ。