元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

生まれ変わりを信じるか。

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生まれ変わりを信じるか?といったら、オレはどっちかっていうと信じるほうだ。

ただし!生まれ変わり云々という考え方には、時間の概念がない(と、オレは考える)。

たとえばオレが死んだら、100年後のアメリカに生れ落ちる、という可能性もゼロではない(すべての可能性は、ひらかれている)。けども、生まれ変わりのプロセスっていうのは、時間が一方向に、過去から未来へと流れているわけではない。
だから、オレが次に1億年前の微生物に生まれ変わる可能性も同じようにゼロではない。
カゲロウ?だかに生まれ変わって2時間後には死んでしまうのかもしれないが、カゲロウのオレはその人生を2時間(短い)とは思わないのだ。なぜなら、所与だから。その2時間を何も考えず精一杯生きるのだろう。

一旦死ぬとするじゃん? で、次の生物(あるいは別な何か)に生れ落ちるまでの空白の期間に時間の概念がないわけよ。

ただし、ゼッタイに間違いないのは、同時代のこの地球に生まれ変わることはない。オレのたましいは、同じ瞬間に共存することはない。
でもそれはなんとなくわかるっしょ。それは、ありえないことだから。

地球外生物に生まれ変わる可能性があるのか、ないのか、そのあたりはようわからんが、あるような気もするな。


オレの「総生まれ変わり」(人間とは限らないから「人生」という言葉もつかえないのだが)の中で、「前」と「後」という概念は、あるのよ。次は人間、次はカゲロウ、次は恐竜、みたいなさ。
でも時間の概念はない。まあこのあたりは突っ込まれてもしどろもどろになっちゃうから、このへんにしておく。

でね、やっと本題なんだけど、今!まさにオレは人間なわけだが、オレの「総生まれ変わり」のなかでたぶんこの人間でいられる数十年が「最強」なんだろうな、って気はしてるのね。

そもそも何回人間でいられるかわからんし、次の人間のときはアフリカの奴隷かもしれんし。女性に生まれて、年頃になったらあっという間にドナドナされて売られちゃうかもしれないじゃん。
でも今、そういうことは一切ない。

この時代の!平和な日本に生まれ、育っているということ。このすばらしさ。戦争も銃撃戦もない。
衣食住が足りていて、ちょっとしたぜいたくもできている。

このオレの全盛期、最強の時代をね、よりよくしていこうと考えるのは、ものすごくふつーの考えではないかい?
と、思うんだけどな。
今が、大大大チャンスなんだよ。「上り詰める」、ね。

周りの人たちは、こういう考えにならんのかねえ。

衝動

ameblo.jpいろんなことを「頑張る」理由がさ、「いつか報われるに違いないから」とか。。

あるいは報われないに違いないからやらない、とか。。

なんか違うと思うんだよね。

だってそれ、自分しかみてないじゃんよ。

違うでしょ? なんか知らんけど、とにかく「何か」に「突き動かされる」から、やるんでしょって。

そういうことって、あるじゃない。

何かに突き動かされてるときって、それにより報われるかどうかなんて、関係ないじゃん。

ただやるんだよ!みたいな。

そして、突き動かされてるときって、別に「楽しい」ってわけでもないんだよ。

楽しいからやるってのもね、報われるからやる、ってよりはまだマシだが。。
それも自分への報償を求めて、っていう意味では、同じだよね。

それこそがね、アナタがやらなければいけないことなんだわさ。しつこいけどそれにより報われるかどうかなんてわからん。将来的に何等かのかたちで報われるかもしれないり報われないかもしれない。
そんなの別にいーじゃん。


あ、そうそう。人の役に立つことをやっている、っていうことを言う人もいるんだけどね。
それは、自分が楽しいから、よりはかなり高尚ではあるんだが。。

それが義務感になっていったとしたら、けっこうダメだよね。自分が、突き動かされてやることって必ずしも人の役に立つことでもないし、短期的には他人の迷惑になることもあるからねえ。

文句言いたくなる対象にはいずれハマるの法則

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ガラケーからスマホへシフトしてきた人たちはほぼ100%、自分より前にスマホへ移行し、ハマっていたヤツを揶揄するコメントを残している。「オレはスマホはやらねーな」ぐらいのことは、必ず言ってる。

今現在は、モロハマりしてるけどな!

いざスマホを買う段になって、必ず一言言い訳をしている。オレは買いたくはなかったけど会社が持てというから、とか、妻が買えというからとか、ガラケーではできない機能がスマホにあるから(仕方なく)とかね。

これはひとつの例だが、庶民は何か流行っている対象に自分が移行していくときに必ず同じような行動をとる。


いやね、これは別にバカなわけじゃなくて、ウソつきなわけでもなく。そういうもんなんだよ、ということ。

「オレはこれはやらない」「ハマらない」と言い出したときにはすでにそれに移行する準備は始まっているのだということ。

そして、言い訳する準備もしておくということ。(最後っ屁)

こういうヤツは、かなり、どっぷりハマっていく。
ま、メーカーからしてみたらいいカモなんだが。

オレは相も変わらずこういうの大キライなんだけど、オレも庶民だからね。。

思うだけでどーせいかない

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がっつりね、砂場に座ってぼーと海を見ているというわけじゃなくて、ホント、とおりすぎるぐらいだけどね。
お台場であっても「海」を十二分に味わうことはできるよ。

その毎週の「プチ」海体験により、オレは「海をみたい。。」とかっつって大海原に逃避する願望はまったく発現せずに済んでいる、ような気がする。

海をみたい。。って毎週海は見てるっつーの。それが「大海原」じゃないからなんだっての。海は海。


でね、オレは年がら年中散歩していて、東京のさまざまな風景の移り変わりを、昔も今もリアルタイムでみているから(たぶんそれゆえに)、別に旅に出たいとも思わない。
大がかりな旅行は何度かしたことはあるがそれはすべて家内のご機嫌とり(苦笑
ま、それと、家族は年に1、2回田舎に帰省するからねえ。。(オレは同行しない)

パンピーってのはひんぱんに「海を見に行く」(独りで)とか「旅行」とかできないし、そんなに頻繁にするもんじゃないでしょ。

だからさ、そもそもできないんだからできない事実に腹を立ててもしょうがないっつーか、アホくさ。
オレみたいに、週に一度海をチラ見しにいくとか散歩でプチストレス発散するとか、何かしらの抑止する手段を持っとけばいいの。

極端いうと、それを考えるためにみんな、脳みそ持ってんでしょ?って思うよ。そういうプチ代替手段を持つのは人間の、人生の「戦略」だぜ?
なんでもかんでも、くだらない妄想癖をもつオレたちの願望は実現できるわきゃねえんだよ。現実の範囲でなんとかするのが人間だし、脳みそはそのために使うもんだ。

現実の範囲ならば、たとえば3年に一度とか5年に一度海外旅行にいくんだって可能でしょ? それも、家族で考えなきゃ。計画して。
家族で知恵出し合って。

人間ね、住む場所にこだわるべきだよ。住む場所にこだわらず旅行で気をまぎらすってのは、間違ってる。
住む場所ってのはね、家そのものにこだわるでもより、ロケーションにこだわるでもよし、とにかく、日常が基本的に気持ちいいということ。


あ!そういうふうに結論づけたいんじゃなかったんだ。
あのね、この話の面白いところはね。

たとえばね、「あー、独りで海にでもいきたい」とかいつもグチいって仕事してるヤツってたぶん独りでは海にいけない。一生。
オレは、(実は独りで海にいきたいとも思わんのだが)独りで海にいきたいとかグチもこぼさず、毎週海をチラ見してプチ発散している。
そういうふうにうまく生きてると、実はオレのほうにその「独りで海を見る」というチャンスはめぐってくるんだなこれが。
不思議なことに。

身の周り

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自分の身の回りでなにか「とげとげしい」ことが頻繁に(それぞれは小さいことでも)起こっているときは、自分の生活の何かが間違っている。

ところで、世界のどこか、テレビの向こう側で悲惨な戦いが繰り広げられていたとしてもそれはアナタの生活の何かが間違っているわけではない。
自分が行ってない場所で起こっている出来事は、テレビやネットが「余計なお世話」してくれてるだけでアナタの人生にはなんの関係もない。
そう思っていて別に逮捕されるわけでもないし、他人に非難される筋合いもない。
大事なのはそう思っても黙ってるこった(オレみたいにこのように公表せずに!)

おっとまた話がそれた。大事なのは「身の回り」で起こっていること。それを注意深く、できるかぎり客観的に観察していくこと。

自分の生活が間違っていないときは、(残念ながら)何も起こらない。平穏無事な、穏やかな生活。
「穏やかな生活」ってのは、極上だ。ほとんどの日本人はそれを知らないらしいが。。

自分の生活が間違っていないときは「楽しいことばかり起こる」ではない。楽しいことばかり起こるのは(当然)何かどかーんと悪いことが起こる前触れ。
それも、知らない日本人が多いが。。

つまり、だ。なんか自分の器を超えるぐらいの楽しいことが頻発しているときも、自分の生活の何かが「間違ってる」わけ。間違ってるっていうのは必ずしも善悪のうちの「悪」ってことじゃないよ。
いってみれば「身の丈にあってない」ってことだよね。

だから、「わかってらっしゃる人」ほど、自分の人生で楽しいことがバンバン起こっているときに、逆に警戒する。具体的にいうと、生活を「慎む」んだよね。


あそれとね、もうひとつほとんどの人が知らない、けっこう重要なこと書くけども。。
穏やかな生活ってのは平々凡々なる生活じゃないんだよ。ここが重要。

自分の人生を平々凡々などと形容しているときは不満感ありありじゃない。ありていにいえば「つまんない」んだよね。
満足感が極小。さっき書いた「楽しいこと」がどかんどかん起きてくれと願う。決して穏やかな生活は望まない。

当然!こういうときも、アナタの生活の何かが、間違っている。
はためからみて、アナタの生活が「穏やか」だろうが「平々凡々」だろうが、まったく変わらないようにみえる。
が、本人のこころ持ちは全く違う。

自分の生活が平々凡々なとき、何が間違ってるか?
それはね、行動してないんだよね。「プチ」チャレンジしてないの。生活の局面局面で。
胸に手を当てて考えてみると実はわかる。ま、そういうときは自分の内面と向きあおうなんて「勇気」は凡人はほとんど持てないんだが。
その「勇気」さえ持てれば人生開けていくんだよね。

自分をどこまでも知りたい

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自分をどこまでも知っていることおよび自分をどこまでも知りたいという欲求は誰にも負けない。


それがカネになるかどうかは。。わからんけど、でも、自分をどこまでも知ることイコール宇宙(という言葉で表現していいものかどうかはわからんが)を知ることである、ということは知っている。

でもね、実は自分を知るっていうのは単なる「趣味」なんだわな。それを商売にしようとしちゃいかんのかもな。そういうよこしまなキモチを持った瞬間に自分のことを深くはわからなくなっていくのだろう。という意味では世の中うまくできている?かもしれん。

いや、あのさ。。「自分探し」みたいな?うわっつらなノウハウで稼いでいる、つーか稼ごうとしてる「セミナー講師」多すぎでしょ。アイツらホント、ダメダメだと思うぜ。

カネの「選択と集中」

 

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カネをね、「かけるべきところへ、かける」ことができている人生ってのは、幸せだよね。

それは、そもそも金銭的に余裕がないとできないことだから。多くの日本人は、実際カネをかけるべきところにかけていても自分が金銭的に余裕があるなんてこれっぽっちも思ってないだろうが。。

そしてもうひとつやね、「かけるべきところ」がはっきりしているということ。これは、相当幸せなことだよ。
それをわかっているということは。

ほとんどの日本人はだらだらといろんな方面へカネを使ってるからねえ。誰かが(カーネギーだっけ)いってた「選択と集中」がまったくできていない。

だらだらとカネを使えることが幸せだと思ってるふしがあるが、それは違う。

実は、大部分の日本人がそうなんだが、だらだらとカネをいろんな方面へ「使うことができる」状態になるとその人の幸福度はぐーんと下がっていくわけ。
不思議だよねえ。

カネをつかうところを集中する(あるいは、そこにしか使えない)よりも、だらだらといろんなところへ使えるほうが幸せだと思わない? ぱっと見ね。
でも絶対にそうではない。

だから、凡人がちょっと小金持ちになると、とたんに不幸になっていく。

ちょっと小金持ちになって、ますます使うところを集中させていくことは、凡人には難しい(らしい)。